【RPG制作講座】自由度

2013年10月26日

 一般に自由度が高いRPGは良いRPGであると言われることが多い。逆に自由度が低いRPG――例えばFF13などは「一本道」「ロールプレイングならぬレールプレイングゲームだ」というように、非難を浴びることが多い。
 ネット上でのレビューや議論を見る限りでは、どうやらみんな『自由度』が大好きなようだ。

 そんな自由度であるが、そこに含まれる『自由』の内実は多岐に渡る。

  • 行き先を決める自由
  • 誰を仲間にするか決める自由
  • 村人に話しかける自由
  • 気に入らないイベントに参加しない自由

 というようにだ。

 そこで、今一度『自由』というものを細分化しまとめる。自由の内実を理解することで、自由の一体何が面白いのかに迫ってみたい。そして、ゲームが面白くなる方向に自由度を調整できるようになりたいところだ。

目次


二つの自由

目的の自由

手段の自由

詳細な自由

選択の自由

行動範囲の自由

施設/システムを利用する自由

順序の自由

任意の自由

自由度とゲーム性

自由に対する結果・反応


二つの自由


 ゲームにおける自由とは、大きく二つに分けることができる。『目的の自由』と『手段の自由』である。

目的の自由

 プレイヤーが目的を決めることができるという自由。例えば、マルチエンディングの作品で、どのエンディングを目指すのかを決めるといった自由だ。

 目的といっても、個別のイベントの目的から、物語の最終目的まで幅広い。洋ゲーなどはこの辺の自由度も高いらしいが、良く知らないので省略。
 ポケモンで「ストーリーのクリアはタダの通過点。目的は対戦で勝ちまくることだ!」というのも、立派な目的の自由。

 ただし、これが全くの自由だと「何をやったら良いのか分からない」という状態になりやすいので注意。かくいう僕も「何でもできる」だけのゲームをやるぐらいなら、リアルで創作活動でもしてたほうがいいんじゃね? とか思っていたりする。
 やはり、ある程度の方向性は示して欲しいところ。

手段の自由

 目的は確定しているものとする。その上で目的を果たすための手段の自由を指す。
 例えば、敵のボスを「力尽くで倒すか」「トラップを仕掛けてからめ手で倒すか」それとも「交渉して和解するか」といったものだ。

 例として……

バンガード(ロマンシングサガ3)

 潜水機能を持った要塞バンガードを起動するという目的のために、術師の協力を得ることに。しかし、有力な二人の術師は仲が悪い上に、タダでは力を貸してくれそうにない。
 取りうる選択肢は以下のようになる。

  • 術師Aを倒して、術師Bの協力を得る。
  • 術師Bを倒して、術師Aの協力を得る。
  • 喧嘩両成敗にして、両方の協力を得る。

アイスソード(ロマンシングサガ)

 終盤のダンジョンである冥府に向かうためには、火山の主と交渉しなくてはならない。「アイスソードを持ってくれば通してやる」とのことだが、剣の持ち主である聖戦士も簡単には譲ってくれそうにない。
 ……って、以前の記事(面白いイベントを作るには?)でも書いてるので省略。

 手段の自由度が高い作品は工夫の余地も大きく、戦略性が高い作品と言えるかもしれない。シナリオ側だけではなくゲームシステム・バランス側の分担も大事だ。

詳細な自由


 以下は上に挙げた2つの自由をより詳細に分類したもの。

選択の自由

 掲示された選択肢を選ぶ自由。
 場合によっては、上に挙げたような目的や手段が変化することもある。

 印象的なのはタクティクスオウガ。この作品では要所の選択肢に対する決定によって、以降の展開が大きく変化する。
 特に一章最後の選択肢では、主人公が悪事に加担することもできるという内容で、当時衝撃的だった。
 このように自分の判断がストーリー展開を大きく左右するということは、プレイヤーの作品への没入感を強く高める。複数の展開を用意するのは、やはり手間が掛かるのだが……。

 ドラクエによくあるような『はい』だろうが『いいえ』だろうが、会話内容がちょっと変わる程度でしかない選択肢だってもちろん『選択の自由』の一部。結果は変わらないという点で、さほど自由度に寄与しているとは言えないかもしれないが……。

行動範囲の自由

 「どれだけ広い範囲を移動できるか」「どれだけ遠くまで移動できるか」「どんな場所に行けるのか」といった自由。
 ストーリーを進めることで、行動範囲が広がるのが普通だ。特に乗物入手による移動範囲の拡張はワクワクもの。

 自由度が高いRPGは序盤から行動範囲の制約がゆるい傾向にある。これが極めてゆるい作品は、特にオープンワールドなんて呼ばれたりする。

 最初から制約はほとんどないが、遠出すると敵が強くなるので実質的には制約があるというDQ1型もある。
 このタイプの場合、ストーリーを進めなくとも、プレイヤーのスキル次第で遠出できるという利点がある。

 自由度が低いRPGの場合は、前の町に戻ることも満足にできなかったりする。やはりFF13の一本道などが代表的。
 それに限らず、ストーリー性重視のRPGならば、一時的に行動範囲が狭まった結果、一本道になりやすい。

 移動手段の便利さも重要だ。
 移動呪文ルーラがあるDQシリーズや、ワールドマップを開けば一瞬で各地に移動できるロマサガなどは便利。近年ではファストトラベルなんて言葉が一般的になってもいる。
 前の町に戻るのに、非常に時間がかかるような仕様では、わざわざ面倒をかけてまで戻ることは少ないだろう。これもやはり一本道に近いプレイになりやすい。

施設/システムを利用する自由

 「お店を始めとした施設を利用できるか」「どんな道具・装備を購入できるか」「転職などのシステムを利用できるか」「どんな職業に転職できるか」といった自由。

 ストーリーの進行によって、利用できる『施設/システム』がぎちぎちに定められている場合、戦略の幅が狭まることになる。
 かといって、序盤から何でもできてしまうと、何をやってよいのか分からなくなる。さらには中盤・後半にモチベーションとなる要素がなくなってしまう問題もある。ここはゲームバランスのセンスが要求される大事な部分だ。

順序の自由

 イベント等をどんな順番にこなすかを決定する自由。
 DQシリーズには大抵、オーブなどの何かを自由な順序で集めるイベントがある。ロマサガ2の七英雄退治、ロマサガ3の四魔貴族退治などもこれ。JRPGにおける自由度が高い作品は、これが充実している場合が多い。
 「順番を変えられるだけじゃ大したことない」「所詮は朝三暮四」なんて思われるかもしれないが、これがなかなか侮れない。

 例えば、この自由によってどんなことができるかというと……

  • 敵が強いダンジョンにあえて挑んで、パーティを効率良く強化する。
  • 良い武器がある町に優先して向かう。
  • 炎のボスと戦う前に、弱点の氷の武器が手に入るイベントをこなす。ロックマン式。
  • 気に入った仲間が加わるイベントを優先してこなす。
  • 一通り行動できる範囲をブラブラしてみて、面白そうなイベントに挑む。

 というように、意外とプレイの幅が広がるものだ。

 もっとも初回プレイではどこで望みの物が手に入るかを把握するのは難しいのだが、色んな場所に手探りで行ってみるのも楽しいもの。二周目以降はどうやればプレイ効率を上げられるかを考える楽しみもある。

 もちろん『行動範囲の自由』が大きいほど、比例してこちらも大きくなるので、合わせて考えよう。

任意の自由

 やってもやらなくてもよいという自由。
 ゲームクリアに必須ではないサブイベントがこれに当たる。話しかける必要がない町人との会話も、これに含むと考えることができる。任意とは言っても重要度の高さに応じてその意味合いも変わってくる。

重要度が高いと……

 進行上重要で、こなさないと進行に支障を来たす。
 例えば「ハッピーエンドのフラグが立たない」「攻略に必要な情報が不足する」など、事実上の半強制に近いことも。
 DQ3においては、ラスボス弱体化に必要な『光の玉』の入手イベントがこれに当たる。

重要度が低いと……

 別にやらなくてもよい。「強力な装備が手に入るが、無くても十分クリアできる」「キャラクターの個別エピソード。本編にはさほど関係ない」など。
 またまたDQ3に例えると、『ノアニール』や『ムオル』のイベントがこれに当たる。そんなイベント知らね・忘れたって人はごめんなさい。

自由度とゲーム性


 一般に「自由度が高い作品はゲーム性も高い」と言われる傾向にある。取り得る選択肢が豊富にあるため、戦術性も高くなるためだ。サガシリーズなどはその典型だろう。
 ただし、自由度とゲーム性は必ずしも両立しない。

 例えば、あるダンジョンの敵を強くすると必然的に探索が難しくなる。早期の攻略が困難になるという意味では、これは自由度を下げる調整である。
 逆に、ダンジョンの敵を弱くすれば自由度は上がるのだが、プレイヤーが攻略する楽しみは薄くなってしまう。自由度を上げた結果、ゲーム性が下がったとも言えるわけだ。

 当然ながら「障害がない」ということは「攻略の必要もない」ということでもある。ゲーム性を追求するなら、やはり一定の制約も必要だろう。

 極端な話をすれば「どのシナリオからでも自由に攻略できます! 順序による有利不利はありません!」というゲームデザインは「順序が自由なだけの短編集」に限りなく近くなっていく。
 攻略のしがいは薄くなるし、シナリオに順序がないから壮大なストーリーも作りにくい。盛り上がりのある作品を作るには苦労しそうだ。
 そういう作品もあっていいとは思うけれど、理想のゲームデザインかと言われると考えものだろう。

自由に対する結果・反応


 最後に『結果』『反応』の重要性を指摘しておきたい。

 自由とは第一にプレイヤーが何をできるかという『入力』である。しかし、入力の方法が豊富なだけでは、十分な自由度が得られるとは言い難い。
 自由度の高さを実感するには、入力に対する『出力』――つまり『結果』『反応』が必要なのだ。これが充実していないことにはどんなに入力が豊富でも、見せかけの自由でしかない。

 例を挙げてみよう。

「DQ3の勇者は21168通りの装備ができる!
 だからDQ3の装備は自由度が超高い!」
※FC版「武器:21 × 鎧:18 × 盾:8 × 兜:7」で算出。
 装飾品は無視。女性専用装備と素手含む。


 恐らく、この主張に納得してくれる人はほとんどいないはず。それは21168の内、意味のある組み合わせ自体がほとんど限られているからである。
 DQ9では装備品によって、キャラクターの見た目が変わるのだが、この時点ではそういった要素も見られない。

 よって、性能に優れた装備だけで固めるのが常となる。
「武器は王者の剣――ただし防具は全裸」
 というような珍妙な組み合わせは、最初から選択肢にも入らないというわけだ。

 要するに自由度が高いとは「プレイヤーが取るに値する行動パターンが豊富にあること」を意味している。そういう意味では『戦略性』『戦術性』にも通じる部分がある。

 そのためにも、重要なのはバランス調整だ。
 「性能に大差ない仲間キャラが大量にいる自由」「弱い武器を買う自由」「ダルいだけのミニゲームをやる自由」「長いだけのコピペダンジョンを探索する自由」。
 そんな自由が充実していたところで、それは下手をすれば「壁に向かって走り続ける自由」「同じ村人に100回話しかける自由」と大差ないとプレイヤーに思われているかもしれない。

 自由は『結果』『反応』あってこそ実感できると言えるだろう。

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posted by 砂川赳 at 06:00 | RPG制作講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする